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佐見歌舞伎の歴史  
  佐見歌舞伎は庶民の楽しみとして、江戸時代から行われていました。

特に、昭和10年代に盛んに上演されました。

しかし、戦後、芝居小屋が台風などの被害により失われてしまい、佐見歌舞伎は途絶えてしまいました。

平成3年春、佐見歌舞伎は37年ぶりに復活。「佐見中学校体育館竣工記念公演」として上演され、2日間で約1,000人の観客が佐見歌舞伎を楽しみました。

平成10年まで5回 公演が行われたあと、様々な理由から佐見歌舞伎は行われなくなりました。

そして、平成18年、再び佐見歌舞伎公演実行委員会を結成。翌年の平成19年4月に9年ぶりに上演を行い、以来、不定期ではありますが、今日まで続いております。

平成23年11月には、「東日本大震災復興祈念公演」として上演。
 
佐見歌舞伎年表  
令和元年(2019)11月12月
平成29年(2017)11月
平成27年(2015)11月21日22日  「佐見歌舞伎第十回記念公演」
 寿式三番叟
 弁天娘女男白波(稲瀬川勢揃の場)
 近江源氏先陣館(盛綱陣屋の場)
 戎詣恋釣針釣女
 (特別公演)佐見の民話 女夫杉悲話
平成25年(2013)11月23日24日 「佐見中学校創立65周年記念」
 寿式三番叟
 弁天娘女男白波(稲瀬川勢揃の場)
 菅原伝授手習鑑(寺子屋の段)
 恋飛脚大和往来(新口村)
平成23年(2011)11月26日27日 「東日本大震災復興祈念公演」
 寿式三番叟
 三人吉三巴白波
 奥州安達ヶ原三段目(袖萩祭文の場)
 伽羅先代萩(御殿より床下まで)
平成21年(2009)11月21日22日  弁天娘女男白波(稲瀬川勢揃の場)
 精霊矢口の渡し(屯兵衛住の場)
 仮名手本忠臣蔵(一力茶屋の場)
 一の谷嫩軍記(熊谷陣屋の場)
平成19年(2007)4月21日22日  寿式三番叟
 弁天娘女男白波(稲瀬川勢揃の場)
 絵本太功記(尼ヶ崎閑居の場)
 菅原伝授手習鑑(吉田社頭車曳の場)
 恋飛脚大和往来(新口村)
平成10年(1998)4月18日19日 「佐見中学校校舎新築竣工並びに佐見中学校創立五十周年記念公演」
 寿式三番叟
 菅原伝授手習鑑(吉田社頭車曳の場)
 口上
 恋飛脚大和往来(新口村の場)
 菅原伝授手習鑑(寺子屋の段)
 弁天娘女男白波(稲瀬川勢揃の場)
平成7年(1995)4月22日23日

 寿式三番叟
 新版歌祭文野崎村(久作宅より引船まで)
 口上
 奥州安達ヶ原三段目(袖萩祭文の場)
 舞踊
 忠臣藏増補本藏下屋敷

平成5年(1993)4月10日11日 「国道ニ五六号線昇格記念祝賀公演」
 寿式三番叟
 艶谷女舞衣(三勝半七酒屋の場)
 近江源氏先陣館(盛綱陣屋の場)
 弁天娘女男白波(稲瀬川勢揃の場)
 菅原伝授手習鑑(吉田社頭車曳の場)
平成4年(1992)4月11日12日  新版歌祭文野崎村(久作宅より引船まで)
 伽羅先代萩(御殿より床下まで)
 絵本太功記十段目(尼ヶ崎閑居の場)
 箱根霊験躄仇討(滝の場)
平成3年(1991)4月13日14日 37年ぶり復活公演
「佐見中学校体育館竣工記念公演」
 寿式三番叟
 菅原伝授手習鑑(寺子屋の段)
 奥州安達原三段目(袖萩祭文の場)
 恋飛脚大和往来(新口村の場)
昭和28年(1953) 佐見歌舞伎公演 この公演以降休演
   
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平成4年8月に発行された「にんげん情報誌 岐阜人(ぎふじん)」創刊号に、「村しばい人物記<上>」として37年ぶり佐見歌舞伎復活の記事が掲載されました。

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平成4年9月に発行された「にんげん情報誌 岐阜人(ぎふじん)」No.2に、「村しばい人物記<下>」が掲載されました。

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市川福升師匠(いちかわふくしょう師匠)
 

佐見歌舞伎は、平成3年に37年ぶりに復活して以降、市川福升師匠のご指導のもと、歌舞伎舞台を行ってきました。福升師匠は、下呂市金山にお住まいで、お稽古のある期間は、佐見まで毎日お越し下さっています。

福升師匠と佐見歌舞伎との出逢いは、1993年。

佐見歌舞伎を復活させようと杉山さんが息子さんを通じて連絡を取ったのが始まりです。

「佐見・・・、確か、佐見は歌舞伎が好きな人が多いと聞いたことがあるけれど・・・。でも、あそこは芝居小屋がないでしょう。」

一から歌舞伎舞台の準備をするのは、並大抵のことではないのそうです。
ましてや、芝居小屋がない佐見では、歌舞伎をするための舞台を上演する体育館にそのたびに設置しなければなりません。莫大なお金がかかる・・・。

歌舞伎を復活させるための一連の顛末は、雑誌「岐阜人」に掲載されていますので、ぜひこちらのページをご覧ください。

そんな佐見歌舞伎を見守り続けた福升師匠。

「私は詳しくは知らないけれど、当時、地元の製材さんや大工さんたちがみんなで協力してなーんでも作っちゃったのよ。ほら、花道だって作っちゃって。幕も、ミシンで縫って輪っかをつけてねぇ。ぜーんぶ作っちゃったのよ。」

「たくさんの歌舞伎を教えてきたけれど、佐見の歌舞伎の演目や誰がやったかは不思議と覚えているのよね」

と、目を細めて微笑んでくださいました。
私たちは福升師匠にご指導いただけて、とても幸せです。


市川福升師匠とのエピソードが映画「レオニー」監督である松井久子監督のブログにありました。福升師匠が、市川少女歌舞伎に出演されていたときのお話です。ぜひ、ご覧ください。<マイレオニーブログ記事はこちらです





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